教師生活が50年になりますが、名前も知らない、見たこともない、ただ、その一瞬で、渡した卒業証書授与式があります。いつも多くの出来事や思い出がいっぱいあって、流した涙や笑顔があり、名前を呼び、一言ずつ会話して渡す卒業証書。でも、この原発事故から13キロメートルの福島県福浦小学校の子ども達、17名に渡した卒業証書では、名前も知らない、思い出と言ったらゆずりはの森の木に登り、突然の雨に急いで学園のアパートに駆け込む子ども達の姿。大型のバスから次々と運び込まれるランドセル、ジャンバー、すべてビニールで覆われています。それを見て、17人のお母さんたちが、「ああ、なんで着ていなかったかと思ったら、教室にそのまま置いてきたんだ」と口々に言っていました。

 たった4日間の宿泊でした。学園にはぐるりんバスの関係で、道路拡張問題が起こり、3階建てのアパート6部屋を購入していて、1部屋には6畳が3室、トイレ、ふろ場、キッチン付きですので、男の子の部屋、女の子の部屋、お母さんたちの部屋、荷物の部屋と、アパートを利用できました。

 ゆずりは学園で過ごし、田原市の文化会館での卒業証書、生徒の一人がピアノを弾き、歌う子ども達。原発事故当時5年生だった彼らは、小学校生活最後の1年を全国各地に避難し、それでも小学校生活の最後の思いでの卒業式をと、地元の若者たちの呼びかけで、ゆずりは学園が協力した卒業式でした。渥美半島見学や、友人の経営するコンビニで、一人500円の自由な買い物プレゼント、その時間の子供らしさが印象深く残っています。

 「元気でしたか」「大変でしたね」と言うしかできない証書授与。それでも「ありがとうございました」と答える子ども達。みんな泣いています。中でも一人の女の子は、「原発女」と言われ、学校に行っていないとお母さんが言っていました。

 当時、中学1年になっていて、それぞれが違う県や違う市のばらばらの中学校で過ごしていた子ども達。福浦小学校は廃校です。仮設住宅7000人の支援もしていた6年間ですが、福島県の福浦小学校の児童との卒業式は、今も心に残る証書授与になります。

 子ども達は、当時13歳でしたから、今はもう22歳になるのでしょうか。

昨日は、一人の国会議員の秘書がゆずりは学園に見えました。教育機会確保法が成立しています。でも、子ども達の学習の権利は、目に見える形でまだ保障されていません。遠く西尾市から、見学に訪れた親子。交通費は片道一人1500円かかっていると言いました。

 どの子も見捨ててはいけません。小学生時代も中学生時代も一度しかないのです。国が県が市がそれぞれできることをしてほしいです。