1月24日(火)中日新聞 朝刊 〜 さすらいの俳人 種田山頭火 〜中村敦夫

中村敦夫演じる 「木枯らしの紋次郎」は 長い楊枝(串カツ用位)を加えて 長いマントに頭に笠

現代的な武士を感じた テレビを見て パパさんは楽しく見た記憶があります

種田山頭火について 中村さんが 書いている〜

〜 死は自分では確認することができない 他者によってのみ認知される

〜山頭火が亡くなった1940年 私が生また同じ年〜山頭火は「17文字 季語」の束縛を

無視する自由律句派のエースで 個性の強い作風で知られている

「分入っても分入っても青い山」代表作

生涯20000句以上を詠んだと言われる 「死」をテーマに669句も作りたがる俳人などはそういない

「この旅死の旅であろうほほけたんぽぽ」

「死をまへに、やぶれたる足袋をぬぐ」

「死の中の雪ふりしきる」

「おちついて死ねそうな草枯るる」 〜 青年期の山頭火が詩や言論で展開した死生観は

激しく情緒的だが 独断的で混乱している

山頭火は 何度か睡眠薬自殺を企てている 〜私には山頭火の自殺未遂は 自己の存在の確認

又はアピールのためのゲームだったように思える

私(パパさん)が 一行詩を始めるきっかけは? 山頭火を3日間 豊橋市の下宿先に泊めた 鈴木折嶺氏との出会いです

ある日 折嶺氏と親交のあった 私の友人に誘われて折嶺氏の自宅を訪問した時

「俺は もうじき死ぬ 200年 一行詩を続けて欲しい〜君たち若い人に是非 お願いしたい〜」

私は 昔山頭火を泊めた人に会える喜びだけで訪問したのに?ビックリでした〜当時テレビで「山頭火〜フランキー堺?が演じた」

6畳の離れの書斎で お茶🍵を出されたが 〜喉を通らない気分でした 

私は「一行詩は ? 何文字ですか?〜」  答えはいつも決まっていた「世の中に無いのだから?自分で考えろ〜」

「月に10個 詩を郵送しなさい それだけだと〜金はいらない」

彼は 70歳越え?ワープロを練習して メンバー10人程いた 関東〜三河周辺だと思う

毎月 冊子本で メンバーの詩をワープロで印刷して 郵送してきた その後は 順番に 好きな詩をメンバーのを抽出せよ

感想を添えよ?など課題が増えた?

毎月 10個詩を送るとなると 10以上作ります 年に最低でも120の詩ができます

10年で1200の詩ができます?

「詩の仲間で 忘年会? 新年会?はどうですか? すると 遠くから来る人を考えろ? 詩を読めばその人がわかる?

詩の仲間達で 集まる事はなっかたです 住所も名前も 本名でない人が多かったです」

ネット時代と同じように 知らない人で繋がっていたかも?鈴木折嶺氏が亡くなった時 解散しました。

集まる事のない人でも 毎月詩を読んでいると 職業 年齢 生活環境が 感じとれる不思議な 一行詩のメンバーでした

鈴木折嶺氏の 庭には 山頭火の句が書かれた 石碑がありました

ゆずりはの森には 鈴木折嶺氏の句の石碑があります