「殴られるのは痛いけど、無視されるよりかはいい」と答えます。一人でいることは寂しいから、いつも友達に近づいていきます。友達と言えるかどうかは、分かりません。自分ではない「他人」の同じ年齢の子どもと言った方が当てはまるかもしれません。同じ年齢の子どもは、こちらの状況に構わず、じゃれてくるように感じられる時は、うるさくてたまりません。「近づくな」ということを言います。しかし、何がいけないことで、いつのタイミングがいけないことかが分かりません。だから、「あっちへ行け」と言います。それでもまた近づいていきます。すると手や足が出ます。子どもだけでは解決できない時です。

 こうしたことが学校現場では「いじめだとは思わなかった。じゃれあっているように思った」といった言葉で表現されることがあります。いじめはなくならないと思います。大きなニュースにはならないけど、まだまだ悲しい子どもの自殺はあります。「悩みの相談は受けていなかった」というコメントもよく見ます。いじめの相談を受けていて、自殺させてしまったのなら、また社会から非難されます。だとしたら、「相談は受けていなかった」とする言葉が逃げ道として用意されるように思います。子どもと向き合うのではなく、社会の目を気にしているように感じられます。

 「殴られるのは痛いけど、無視されるよりかはいい」

子どもたちが家族の中から社会の中に出ていくときには、大きな波があります。壁があります。自分との闘いをいつも子どもたちはしています。救いを求めているのですが、その手はなかなか大人の目にふれることはありません。