青年の支援に、今日は病院に行ってきました。青年もひとりひとり違います。考え方も、こだわりも、また環境も違います。青年が学習している状況も違います。今までの生活環境もそれぞれ違って、だから対する時の言葉の使い方も違います。

 一つの解決方法が、次の相談の時に役立つといいのですが、これも難しいです。ひとつの言葉に過剰に反応する場合もあります。

「ふつう」「あたりまえ」「こんなことくらい」「だから、おまえは」「何回言ったら、分かる」・・・

色々な言葉が、刃のように青年たちの心を傷つけます。

子どもが親を殺す事件もあります。言い過ぎた言葉、繰り返す言葉が、ついには殺人の手段しかなかった、言葉が通じなければまだいいですが、日本語ですから、分かってしまう。時にはその言葉が誤解のままであっても、家族間ではどうしようもない状態、閉じられた空間、逃げ場がない家の中では、少しの言葉のかけ違いで、悲しい事件になることもあります。

 帰りの車の中で、いろいろな若者、青年が生きやすい、生きていて楽しいと思える社会があればいいのに、何かこの日本ではそこが難しいと思えてなりません。

「一度もほめてくれない父親」と一人の女性が新聞に書いていました。ほめてほしいと父親に頼みますが、自己中心だと一蹴された親子の話です。「愛されたい」と思い続ける子どもが大きくなって家族を持ちます。でも愛されたことがない為、どこかで親になれないメンタルの面があります。

 昨日、午後群馬県高崎市の中学1年の女子がふたり飛び降り自殺を図りました。一人は死亡、もう一人は命が助かりました。中学生、高校生の苦しみも今もいろいろなところに見られます。