同じ高校生の起こした事件は、今教育現場に明確な形で何らかの解決に向けた方法を突き付けられたように思います。道徳が軽くなったと言われたのは、もう20年も前のことです。道徳の教科書の内容がうまく子どもたち、先生の心に入らないように思いました。道徳の研究授業は難しいので、「え、道徳ですか」と言う先生たちも多くいました。ただでさえ子どもたちの本音を引き出すのはなかなか難しいです。結論が決まっているのも一つの要因です。「また同じように、命は大切と答えれば、授業は成立するんでしょ」という暗黙でもなく、明白な結論ありきの「道徳」「命の授業」は、「命を大切にしましょう」の言葉を何回連呼しても子どもたち、生徒の心には、なかなか響かないからです。

 今回の佐世保の事件でも「悪いと反省していない、人を殺してみたかった」と言う報道がされています。興味、関心が強い時は、それが普通の世界では悪いことだと思われても、「何故悪いの」と言う答えがもどってきます。こうした個々の子どもたち、生徒の心の中に踏み込んだ対応は、一斉の授業では難しいです。家庭だけが責められるものでもありません。学校現場だけが責められるものでもありません。

ただ、今回のケースでは、洗濯剤などを薄めて友達の給食に混ぜていた事件をもっと学校現場で慎重に対処していくことをしていれば、こうした事件は防げれた可能性もあると思います。小動物の解剖から始まって、「人を殺してみたかった」という考えを持つ人はいます。こうした考えを持つ彼らの興味、関心を他に向けさせて、その子どもが、その生徒が進む道が「人間として」どうあってほしいかを、とても長い時間をかけて共に考えていく場所が必要だと思います。