「本当は学校に行きたかった」でも「行きたくない」と言ってしまうことがあります。子ども達と話すと、何かいろいろ自分の心の中の言葉と反対のことを言ってしまうことがあると言います。「好きなのに、嫌いと言ってしまう」口に言葉が出てしまって、もう訂正出来ず、「不器用な人生だと思ってしまう」と言います。

即断ではなく、少し大人のこちらも余裕を持って対してあげるといいのに、その子の言葉をそのまま聞いてやることが、「理解」と間違えることもあると、私自身反省することの多い日々です。

 私の友達が言いました。「カウンセラー」と「治療者」ではなく、対等のコミュニケーションなのだと教えて下さいました。目の前の子ども達と話します。確かに彼らと私は、「治療者」「指導者」ではないと思います。3年間、またはもっと長い月日をともに過ごします。何かを教えるのではなく、彼らの歩みに合わせながら、一緒に考える時間の共有がいいように思います。小学生の子の対応と高校生の子の対応と確かに違います。年齢が低いほど多くの言葉を持たないから、どう心の叫びに向かえるかというと、やはり辛抱強く、傍にいて、時に話し、時に同じ時代を過ごした先輩中学生や高校生の言葉に耳を傾ける場の設定の支援だったりします。

 フリースクールの部と高校生、大学生の部があるからこそ、またスタッフが若い人からやや年齢の人がいることも大切な条件かも知れません。人生の社会の縮図が必要だと思います。

何かをしようとすると、確かに資金が必要な時もあります。資金のないときは、「ただ祈る」と言われるキリスト教の方がいると聞きました。今回の海岸清掃には、確かにゴミ処理をするのに、かなりのお金がかかります。田原市からの助成金では足りないのが本音です。ボランティアで多くの人々が集まります。お茶もほしいです。300人近くの人がゆずりは学園に集まります。祈っていました。すると今日、飲料会社の方から飲料水を寄付して下さるという電話がありました。海岸清掃は大変な作業です。みなさん、ボランティアで来て下さいます。飲料水はまず本当に嬉しい祈りの成果です。心の中の叫びに気付いて下さったことに感謝します。