たまたま観たNHKテレビの番組。「妻と娘が悩んで死んだということだけには、終わらせたくない」というお父さんの話でした。いじめられ、無視され、苦しくて「死にたい」と言う子ども。「仲直りに握手なんかしたくなかった」という子ども。「死にたいという手紙を、学校側は宿題をやりたくないからでは」と受け取り、母親はその後、学校に不信感を持ったということでした。

 子ども達は「死にたい」と言います。でもそれは「死にたくない。それほど苦しいんだ。」の言葉が後ろにあります。それを見つけるのが、教師です。

 イタリアには、始業式も入学式も卒業式もましてや、ホームルームの担任の先生もいないと、ゆずりは学園に宿泊した記者が言っていました。

 先生を頼らなければ、では学校では誰に助けを求めたらいいのか。先生がむしろ子どもや保護者を苦しめる存在になる場合もあります。ドイツに引っ越ししてしまった家族がいます。「日本の教育はおかしい」と言っていました。「個性を大事にといっているのは表面だけで、みんな同じにしたいだけ。同じだと指導が楽だから」と。

 いじめは本当になくならないです。加害者にとっては、単なる遊びだったりします。仲直りに教師は、握手をさせて「はい。もうこれからは仲良くしようね」で解決したと思ったというケースは、今も多いです。始業式がまた近づきます。課題が手につかず、苦しむ子どもがいます。夏休みに、カナダに旅行したことがあります。中学生だった息子を連れて行きました。カナダでは夏休みなんだから、宿題はないと言っていました。息子は宿題をカナダに持っていきました。宿題も課題もなく、また始業式なんかもない、それだけでも子ども達はきっと多くの子どもの苦しみは減ると思います。

 名古屋の火の舞の練習での「罰にあたった」との発言も、「宿題をやりたくない」からと言った悲しい発言も、日本の教育現場の課題です。

 今回来たNICEの若者たちの中には、高校生や大学生もいました。「死なないで」と話しました。「ママさんもあと20年生きていてください」と言われました。とても無理ですが、「また来ます」と言ってくれた若者達の言葉に、老体に鞭打って頑張りたいと思いました。

 始業式が来ます。子ども達、どうぞ死なないでください。